清書の自明性について

清書は「原稿などをきれいに書き直すこと」といわれます。しかし商行為としての出版では、これだけでは不十分です。

  1. 誤記や誤植を修正し、用字用語などを妥当なものに一貫させること
  2. 年月日や単位数値などの検証可能な事実を正確にすること
  3. きれいな文字を用いて美しく整えること

1 と 2 は校正校閲、3 は組版の領域です。

一見してそれが清書であるかどうかは、まず「文字がきれいかどうか」で判断されます。そして出版物の「文字がきれい」とは、活字 (1 で印字されていることを今は意味しています。

活字で印字されている出版物は、校正校閲を経ており、組版も美しく整っているのが自明でした。言い換えると、活字で印字されていることそれ自体が、上記のような清書の条件も満たしていると見なされていたわけです。

自明とは、意識することなくそうであると認めていることです。それがあまりに当たり前なので、自分がそのように認めていることさえ気づいていない。ついこの前まで、出版はこうした清書の自明性の上に成り立っていました。

その自明さが今では失われています。

私たちは日常的に、デジタルフォントできれいに印字/表示された高品質の文字を見ています。その文字が活字であるというだけでそれが清書であるとは、もはや誰も思わないでしょう。

ところが、この失われたはずの清書の自明性が、今ではかえって清書を商行為にしてきた作り手への妨げになっています。

その典型例が「読めればいい」とする言説です。ここには「文字が活字なら清書である」というかつての自明性が、そこでなにが自明とされていたのかを問い返すことなく、文字が活字ならそれだけで商行為として足りると思い込んでいるふしがある。しかもそれが組版だけでなく、校正校閲も軽んじている言説であることを、それを言っている本人も気づいていない。

もしかすると彼らの中では「清書」それ自体の自明さが失われているのかもしれません。

  1. ここでいう活字は、手書きではなく工業生産の手法で作られた文字というほどの広い意味です。 []

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