文字コードの字体包摂の根拠を「人間が文字をそう認知しているから」と説明する向きがありますが、私は常々そうではないのではないかと感じています。
文字コードは工業生産の体系です。人間の言葉の体系ではありませんし、文字の体系でもない。これがまず大前提。
工業生産の体系で言葉を扱うのが文字コードです。そして人間の言葉の体系は決してそのようにはできていない。このとき文字コードは、言葉に合わせるのではなく、一方的に言葉を自分に合わせようとする。
工業生産体系の価値は、実利性の一点にあります。役に立たたなければ誰にも使われない。そのため、ひたすら実利性の確保を妨げるものを排除する。人間の役に立つために。
文字コードの包摂は、実利性を確保する方法としての排除であり、それ以上のものではない。人間の認知とは別の体系から生み出された手段である、と私は考えます。
たとえば「猫、ねこ、ネコ、にゃんこ、キャット、cat」の意味はどれも同じです。だから「猫」のひとつだけにしていいのかといえば、そういうわけにはいかない。言葉が使われるそれぞれの状況によって「にゃんこ」の方が適切で「猫」は避けた方がいいこともある。文字の字体も、それぞれの状況によって適切なものを使い分けるような差異がある。
文字コードの体系では、言葉のこうした豊かな差異は、実利性を妨げるものでしかない。
私はそれが悪いといっているのではありません。
たとえば、文字組版は工業生産の体系です。とくに日本では明治期の活版以降、文字を一方的に文字組版の工業生産体系に合わせてきた。今ではこれが私たちの言葉になっている。
たとえば、活版以前の欧州では、地方によって言葉の綴りが異なるのが普通だったようです。それが活版以降、印刷物が広く普及したことで、次第に綴りがひとつに収斂されていったといいます。
私たちは工業生産体系が言葉の差異を排除してきたことの実利的な恩恵を受けてる。
文字コードの包摂もそれなくしては役に立たない。でも、その包摂を人間の言葉の認知や体系を根拠とするような説はどうなんだろ〜というモヤモヤをここで表明してみた次第です。
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